タイのタクシン派と反タクシン派の対立は何がもとになっているのか

以下は内容が古くなっています。新しい情報に興味ある方は、5月25日付のブログを見てください。
http://d.hatena.ne.jp/yamada-home/20140524/1400932169

タクシンの栄光

 98年、携帯電話事業で財をなしたタクシン・チナワットが、愛国党を創設。01年タクシンは首相に就任した。05年、愛国党は総選挙で圧勝し、タイ初の単独政権を樹立した。タイの国民の半数は農民だが、タクシンは農民の関心を得るため、農民の借金の返済を3年間猶予、一村一品運動を行う、全ての村に100万バーツ(約280万円)を支給する(同じことを竹下さんがやってたな)ことを公約したのである。また、30バーツで診療してもらえる制度も作ることを約束した。タクシンは、前政権のIMFべったりの経済政策を批判し、公共事業を積極的におこなうことも公約し、銀行の不良債権を買取機関の設置というまともな公約もしているが、農村振興策、貧困層向け施策で、北部農民層、貧困層から大きな支持を得たのである。
 タクシン政権誕生時から、輸出産業が盛り返し、輸出先導の景気回復があった。景気も上向き、タクシンは自分の政策の結果とアピールした。03年タクシンは麻薬マフィア撲滅を突然始める。わずか数カ月で2500人の麻薬売人が、裁判も経ずに死亡。タクシンも自分の政策の成果と喜び、国民も好意的だったが、欧米マスコミは訴訟なしに大量の人間を殺したとして批判した。タクシンは自分の親族を警察の要職につけたり、陸軍司令官につけたりと、身内政治を続け、タイの従来の支配者層、インテリ層の顰蹙を買ったが、国民からすれば、コップの中の争いに過ぎず、タクシン人気に影響はさほどなかった。

タクシンの没落

 06年タクシンは下院を解散し、総選挙が行われたが、反対派が投票をボイコット。そのため有効票に足りず、選挙は無効となった。
 06年に軍事クーデターが発生し、97年憲法による民政が停止され、タクシンは失脚した。タクシンはその後裁判所から有罪判決を下され、海外で逃亡生活を続けている。クーデターは国王の介入により収拾され、軍事政権が発足し、同年暫定憲法が公布され、スラユットが暫定首相に着任した。07年5月、憲法裁判所は同党に対し、06年下院総選挙で重大な選挙違反があったとして、愛国党は解党を命じられた。
 07年憲法が公布され、民政に復帰、07年12月に下院選挙、08年3月に上院選挙が行われたが、旧タクシン派が合流してできた人民の力党が勝利。08年1月、タクシン系のサマックが首相に就任。サマック首相はテレビ出演を巡るスキャンダルで辞任、10月にタクシン元首相の義弟であるソムチャーイが首相に就任したが、憲法裁判所が選挙違反を理由に人民の力党の解党を命じ、ソムチャーイも失職。12月には反タクシン派の民主党のアピシットが首相となった。

選挙では勝っても、旧支配層の力で権力を保てないタクシン派

 貧困層の救済、農村部の振興を約束しバラマキとも言われる政策は、貧困層や人口のおよそ6割を占めると言われる農村部を中心に支持を集めており、選挙をすればタクシン派が勝利することになる。しかしタクシンが驕りから強圧的な政治運営をしたことから足をすくわれ、軍部クーデターで失脚。 その支持母体の愛国党、人民の力党も、最高裁に解党された。
 タクシン派は多数派ではあっても、軍、王、旧来からの財界人からなる旧来の支配層を敵にしており、そのため力によってねじ伏せられてきた。

タクシン派、反タクシン派の対立はタイ国内の南北対立を反映

 首都バンコクはタイ中央部にあり、バンコク周辺の県はバンコクベッドタウンとして、人口増加が著しい。南部はプーケットに代表されるリゾート地帯を抱え、外国人観光客が多く訪れ、比較的裕福な人が多い。それに対し地方ではバンコクとの経済格差が大きく、医師や病院の不足、教育施設の不足、貧困、農業以外の労働現場の不足、疫病の発生などの問題を抱えている。特に東北部農村地帯はタイで最も貧困とされる地域。すなわち、タイには国内にも南北問題があるのだ。
 タクシンは、北部の農村部の貧しい住民が支持者層であり、反タクシン派は南部を中心とする都市部の中間層を支持基盤としている。
 タクシンは、南部の富を北部に注入し、北部の貧困層の生活安定を図ったのだが、反タクシン派はこれを自派優先政策であり、金銭バラマキによる人気取り政策であり、こうして金で買われた票による選挙は公正でないと主張する。富の再分配は経済的政策として不当でも何でもない。実際タクシン政権下、タイ経済は成長した。タクシン派からすると、反タクシン派の主張は、金持ちたちの利権確保としか映っていない。

08年の反タクシン派PADによる空港占拠

 反タクシン派は、PAD(民主市民連合)という市民運動グループを組織。08年8月、PADは8月にはバンコクの首相府を占拠し、タクシン派のサマック首相の退陣を要求。受け入れられないとなるとさらにバンコク空港も占拠した。しかし警察も軍も動かない。その後サマック首相は退陣、最高裁人民の力党を解党し、ソムチャーイも失職してしまう。09年12月には反タクシン派の民主党のアピシットが、議会内で多数工作を進め、連立政権を形成し、首相となった。そのため、アピシットは国民の信任を得て首相になった訳ではないため、タクシン派からすれば、再度選挙をやり直せ、と言うことになる。

タクシン派UDDの逆襲

 タクシン派によってなる市民運動グループのUDD(反独裁民主同盟)が、このような事態を座視する筈がない。彼らの目には、この一連の事態は、選挙で選ばれた自分たちの代表が、PADのごり押しと、最高裁による不当な政治介入によって首相の座を失ったとしか映っていない。しかも、空港を宣教するなどした、PAD幹部は何らの刑事処罰もされていないのだ。
 復讐の機会はすぐ訪れた。ASEAN会合が今年の議長国タイで開かれたからだ。UDDは首相府を占拠、さらに会合が開かれているホテルにも乱入。ASEANは途中で閉幕。アピシットは世界に恥をかかされ、腸が煮えくり返ったことだろう。その後も解散しないUDDを武力で制圧することになった。それが今回の軍の介入である。

タクシン派は今後

 タクシン派UDDは首相府の占拠を解くことになったが、これですべてが終わるわけではないだろう。タクシン派UDDとしては、PADも同じことをしているのに放置され、なんで自分たちだけ武力排除されるのかと、怒り心頭なはずだ。
 今回の武力制圧は、グループの一部が過激化、バスを焼いたり、死者を出すなどしたため、自ら付け込む機会を与えたともいえなくもない。しかし、彼らには真の多数派は自分たちであるという考えだ。民主的正当性を持ち合わせているという自負もあり、納得はしていないだろう。

タクシン派は今後

 選挙をやっても負けるとわかっているから、アピシットも、国会の解散は打てない。しかしいつかは総選挙を迎えるだろう。そした負けた場合どうするのか。そのまま政権を渡すことはないだろう。タクシンにはあれだけのことをやったのだ。PAD相手にはしなかった武力制圧を、UDDに対しては行った。相当の仕打ちを受けるに違いないと考えているはずだ。彼らが恐怖にさらされば、さらなる軍介入もあるかもしれない。そうなれば両者の対立は泥沼化するだろう。 

国王は今後

 タイ歴代国王はこれまで国民の絶対的尊敬の対象だった。特にプミポン国王の人気は高い。プミポン国王は軍政権に民政移管を実現させる大きな力ともなった。
 しかしこれまでの一連の騒動で、国王側は反タクシン派支持にまわったことで、タクシン派は国王への敬意をこれまで通りには維持できないのではないか。国王は06年4月異例の演説を行い、同月行われた総選挙は民主的ではなかったことを暗に示し、裁判所は直ちに選挙を無効とした。また08年10月7日の警官隊との衝突で死亡したPAD支持者の葬儀に、シリキット王妃が参列していた。
 UDD支持者が赤いシャツを着ているのに対し、PADは黄色のシャツを身につけているが、黄色は国王の誕生した月曜日を表す色であり、親国王派を意図してのンボルカラーとした色である。
 プミポン国王への国民の崇拝は絶対的なものがあり、同国王存命中は王政も影響はないだろう。しかし同国王は81歳と、高齢でもあり、もし亡くなることがあれば、それがもとになって、どんな騒動が起こるともしれない。

またタクシン派が集団抗議行動(10.04.05追加)

 アピシット・タイ首相の退陣、議会解散を求め、3月14日、バンコク市内で集団抗議行動を開始。今月になって、バンコク中心部の最大商業地区を占拠し、なおも占拠を続けている。事態打開のメドは立たず、混乱は拡大している。観光業を中心に経済的な影響も深刻化してきた。
 アピシット3月下旬に首相自らUDDとの交渉に応じ、「年内の議会解散は可能だ」と譲歩姿勢も示した。しかしタクシン派は直ちに解散するよう求め、一歩も引かない構えだ。タクシン派は北部農業地帯から来ている。タイはしばらくすると雨期に入り、農耕シーズンが到来する。そうなると地元に戻らなければならない。当然、その前に決着をつけようとするから、どうしても抗議行動がエスカレートする。5日には金融街を占拠するとしており、その後はどうなるかも分からない。 

10日ついに鎮圧強行

 アピシット政権は4月7日にバンコクに非常事態を宣言。今後の対応については事前に国民に説明する、としていた。タイ政府は8日、前日の非常事態宣言を受けて、海外逃亡中のタクシン元首相を支持するテレビ局とウエブサイトを閉鎖、バンコク中心部で座り込みを続けるタクシン支持派に、集会でのメガホン使用を禁止。すると、今度はUDDが9日、バンコク郊外にある通信衛星会社「タイコム」の通信施設に突入、占拠した。
 事態が急変したのは4月10日、国民への説明なく治安部隊とタクシン元首相派が衝突し、21人が死亡、858人が負傷。アピシット首相は同日深夜、テレビ演説し、「デモ隊が投げた小型爆弾が発端」として騒乱の原因は元首相派にあると批判。事実関係を明確にするため、中立的な専門家による調査チームを設置することを明らかにした。自身の責任については言及しなかった。
 タクシン派は、11日も市内2ヵ所での占拠を継続。アピシット首相の国外退去を求めるなど要求をエスカレートさせた。
 政府は非常事態を宣言しながらUDDの抗議行動を抑えられていない。10日の強行制圧では多数の死者、負傷者を出しながら、タクシン派を市内中心部から排除できなかった。アピシット政権に選択肢は限られている。さらに強硬策に出て、結局タクシン派を制圧できず、さらに死者、負傷者を出せばどうなるか。軍が介入し、タクシン派を排除するとともに、アピシット政権も退陣を迫られるのではないか。かと言って、手をこまねいている訳にもいかない。では、国王の介入はあるのか。国王が介入して、アピシットの肩を持っているとの見られると、国王の権威も失墜しかねない。プミポン国王への国民の支持は絶大だが、国王も高齢であり、後継者に負の遺産を残す訳にはいかないだろう。

4月12日、与党解党

 タイ選挙管理委員会は12日、アピシット首相が率いる与党・民主党に違法献金が行われたと認定し、検察当局に対し同党の解党を求める告発を行うことを決めた。民主党の不正献金疑惑は05年の総選挙時、民間企業から約2億6000万バーツ(約7億8000万円)の違法な選挙資金提供を受けたというもので、UDDが選管に調査を申し立てていた。ただ民主党に対する解党処分は今後、検察当局の判断を経て憲法裁で審理されるため、処分の最終決定には長期間かかる見通し。アピシットは年内に退陣すると言っているので、それまでに新党を作るだろうか、解党判決が将来出ても直接の影響は無い。
 しかし、軍の強制排除が失敗に終わった上に、民主党が解党ということになると、アピシットの政権の正統性自体が疑われる。
 タクシン派の政党「国民の力党」が08年12月、選挙違反で憲法裁判所から解党処分を受け、同派政権の崩壊につながった。こうした政権の崩壊の繰り返しは、タイ政府、タイ王国事態に対する国際的不信任、市場からの不信任につながる。民主党解党の選管決定で政情がまた大きく動くだろう。
 心配なのは軍の動きだ。政権の混乱を抑えるために軍がクーデターを起こすこともあり得ないことではない。しかしそれで対外的に信任が強まるかと言えば、逆の結果になるのではないか。(10.4.13)

4月22日 政府は集会に砲弾、死者3名負傷者75人

 バンコクのビジネス街で22日、連続して5件の爆発があり、少なくとも3人が死亡、75人が負傷した。現場は、銀行・オフィスビル・ホテルなどが集まるビジネス街で、治安部隊が警備にあたっていた。爆発は、M79と呼ばれる砲弾が撃ち込まれたことによるもので、現場には政府支持派が集結していた。

5月4日

アピシット首相は5月3日、テレビ演説し、11月14日に総選挙を行う方針を明らかにした。これまで、年内に議会を解散するとしていたのを、さらに前倒しした形だ。
タクシン派のUDDは4日、アピシット首相の提案を受け入れると発表。混乱は収拾に向かう可能性が出てきた。ただ、アピシット首相は、非常事態宣言下で起こされた違法行為に対して、法的措置を取る姿勢を示しており、今後も混乱の要素は残している。かつて、徳川家康が、外堀を埋めると欺いて、内堀までも埋め尽くして、大阪城を丸裸にしたのと同様、雨季の訪れと共に農繁期を迎え、厭戦気分の漂うタクシン派の窮状につけこみ、いったん解散させた後に、強硬手段を模索しているとも限らない。ただ、軍への根回しが必要だろうし、国王の意向もうかがってということにもなろう。
そもそも、再度選挙が行われ、再度タクシン派が勝利し、再度憲法裁判所が選挙の結果を争うことになれば、またもと来た道を戻るだけのことになる。

アピシット和解拒絶、カティヤ少将銃撃さる

 アピシットは占拠地域の電気と水道の供給を5月13日午前0時から停止すると、発表した。しかし占拠地域のみの供給停止は技術的に困難で、広い範囲に影響が及ぶことが分かると、すぐに撤回した。
 アピシットは、UDDが和解策の原則受け入れを表明しながらも占拠を解除しないことを理由に、同日、「11月14日総選挙実施」などの政治日程を、白紙撤回。軍は、夜から装甲車50台以上で、UDD占拠地域を封鎖すると発表。
同日夜。タクシン派の強硬派リーダーでもある、軍人のカティヤ陸軍少将(停職中)が頭部を撃たれ、意識不明の重体におちいった。公園周辺の高層ビルから狙撃されたとみられている。流れ玉に当たったのと違い、周りに人がいる中、同少将だけに命中したというのだから、間違いなく狙撃手の仕業だ。カティヤ氏銃撃の情報を聞いたタクシン派市民が次々に集まり、午後11時ごろから警戒の軍兵士と衝突。市民は投石や手製のロケット花火の発射で、軍はゴム弾を発砲。騒然となった。

19日、ついに終息か

 5月19日午前、タイの治安部隊はルンピニ公園のデモ隊の強制排除に踏み切り、激しい銃撃戦の結果、制圧。イタリア人ジャーナリスト1人を含む計5人が死亡。
 UDD幹部のジャトゥポン氏とナタウッド氏は、デモ隊数千人が占拠するバンコク中心部の繁華街のステージ上で演説し、警察への出頭を表明。「これ以上の犠牲を出したくない。ここまで治安部隊が突入してきたらもっと多くの人が死ぬことになる」と述べ、デモ集会の解散を宣言した。

意外に日経もタクシン寄りの記事

 欧米マスコミからは、タクシンは単なるポピュリスト、民主主義の敵として、評判は悪い。日経も同様の論調だったが、5月21日の日経に、意外にタクシンに好意的な記事が載っていた。論旨は次のとおり。

  • 官僚、軍、知識人など富裕な特権階級が結託して政治を主導、地方農民、年の低所得者層は置去りにしてきたのがタイ式民主主義の本質。
  • 農民を侮り「1票の重み」を軽視する風潮があった。
  • 中立であるべき司法が、選挙に勝利したタクシン派政党を微罪で解党処分とした。
  • 反タクシン派による08年の空港占拠事件の首謀者を訴追していない。
  • タクシン元首相の一部資産没収も、5人の法学者から、連名で恣意的と批判されている。
  • 王室も、タクシン政権下、反タクシン派デモ隊に死者が出ると王妃らが葬儀に参加したが、今回反タクシン派が多数死亡しても沈黙を守っている。