英語民間試験見送りについてはいろいろ考えさせられました。

 

テレビではある私立学校の授業風景が映し出されていました。

教室で、生徒同士が二人一組になって、英語で会話するという授業でした。

生徒は「今までの努力は何だったのか」と、

校長は「授業時間を一部振り替えて対応してきたのに

今までの努力が無駄になった」と

それぞれ憤っていました。

 

しかし、生徒の憤りについては、違和感を感じました。

「それでも、英会話の上達という財産を得られたのだから、

いいじゃないか。」

と思うからです。

確かに限られた時間の中で、

英文解釈、英作文に力を割いた方が受験勉強としては効率的でしょう。

しかし、それ以上の財産を得ているんですからね。

 

校長の発言にも疑問を持ちました。

このような教育は、私立だからできる話であり、

公立高校ではとてもできないだろうからです。

 

そう考えると、思い起こされるのは

文科相の「身の丈」発言です。

日経新聞のコラムで、

これは、問題発言でも何でもなく、

英語民間試験の本質をつい言い当ててしまったのでは

という指摘がありました。

まさにそう。

文科相は「王様は裸だ」と言ったに過ぎないのです。

非難されるべきは、裸で歩いていた文科省ということでしょう。

 

さらに思い起こされるのは、明治時代の英語公用語化論争です。

森有礼が、行政教育を英語でやれ、と言ったのですが、

これに対して在野の学者馬場辰猪が次のように反論しました。

英語学習には、時間や労力、お金がかかるため、富裕層に有利である。

生活に追われる一般庶民が英語を身に付けるのは大変難しい。

結果的に、格差社会化が進む。

一般庶民の政治参加や社会参加は難しくなり、一部の恵まれた層しか、国や社会の重要問題に関われなくなる。

彼は、英国留学経験もある人物でしたが、

英国の階級社会に対して疑問を持っていたのでしょう。

 

とはいえ、

英語教育は重要です。

日本の弁護士に英語のできる人はそう多くはありませんが、

台湾と韓国の弁護士は概して英語ができます。

最近は、英語ができないと、企業法務活動も十分にできません。

 

教育の格差を生まないように、

小学校低学年のうちから、IT教育に積極的に投資して、

貧困の再生産がなされないようにしてほしいと思います。

日本の公教育予算はOECDでも、最低ランクですから

十分予算の伸びしろはある筈です。