富永恭次という軍人

 牟田口廉也wikipediaで調べていた中で、富永恭次という、ひどい軍人の名前が出てきた。おそらく帝国陸軍で最悪の将軍ではなかろうか。「東條英機の腰巾着」というあだ名を持ち、最後は中将にまで昇進している。
 太平洋戦争のはじまる直前、兵務局長田中隆吉少将が装備の不足を訴えたとき、当時人事局長だった冨永は「竹槍で戦え」と一蹴したという。
 昭和19年9月、彼は第4航空軍司令官に転出、マニラに着任した。冨永はフィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊の出撃命令を出す。特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言い、特攻隊員を送り出した。
 しかし彼は特攻隊員への約束は果たさなかった。自身は戦勢の不利が明白となった昭和20年1月、司令官・参謀などの高級将校とともに残り少ない戦闘機を駆り出して、台湾へと逃亡。彼自身は、通常将官の異動に使う一式陸攻ではなく、足の速い複座式戦闘機で逃げたという。積み荷はウィスキーと芸者たちで、他方、彼の約1万の部下の航空将兵はなれない地上部隊に編成替えされ、大半が戦死した。将官でなければ、敵前逃亡で処罰されてもおかしくない行動だったが(日本の軍法では将官は処罰の対象外)、彼は日本に帰ってくると、胃潰瘍の診断書を出して、さっさと、熱海で静養を決め込んだ。
 その後予備役に編入されるも、陸軍内に「命が惜しくて部下を捨てて逃げてきた人間を、戦争から解放するのはどうか」という声が上がり、満州に送られた。しかし悪運だけは強く、ソ連軍によってシベリア抑留にあうが、結局生還している。