坊主憎けりゃ袈裟まで憎い2 石窟庵についても歴史の歪曲

有名な予備校講師ソル・ミンソク。韓国史が専門で、テレビでも大人気、日本でいえば林修みたいな存在らしい。しかし、このソル先生。あるテレビバラエティ番組で、韓国の国宝でもある石窟庵について「石窟庵は数学・幾何学・科学の完ぺきな結晶体で、1000年以上にわたって完ぺきに保存されてきたが、日本が嫉妬してセメントとコンクリートを塗って傷つけた」といって、喝采を浴びたという。

しかし、現実は全く逆で、石窟庵は天井が崩れて土に埋もれた状態だった。日本は1912年に大規模補修工事をし、文化遺産を何とか生かそうとして、当時としては最新の技術であるセメントを使って保全に尽くしたのである。

韓国ではこの石窟庵について別のウソもまかり通っている。この石窟案には2体の本尊があったが、日本人がこれを日本に持ち去ったという話だ。これも、近年元々1体しかなかったことが判明した。さらに、日本が石窟庵の仏像を元の配置とはまったく異なる形で復元したという非難もされているのだが、これも日本がした配置が正しかったことが分かっている。

歴史はロマンというが、韓国では特にそうらしい。

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

韓国統監府は京畿道水原に農業試験場を設置し、熊本県の早神力、山口県の穀良都、栃木県の多摩錦のような単位面積当たりの生産量が多い品種の米を導入。その努力もあって、1910年代初めに1200万石水準にだった米生産量は1937年には2700万石へと倍以上に増加した。

しかし韓国の反日ジャーナリズムは「日帝が収穫量の少ない在来イネの品種を抹殺しようとする目的で日本米を普及させた」と喧伝。韓国ではそれが通説化しつつあるという。保守系紙の中央日報は、そうした馬鹿げた主張を批判しているのだが、韓国は大統領が右を向けば、マスコミもそろって右を向く国なので、いかんせん分が悪いとしか言いようがない。

ベトナム流共産主義

www.msn.com

上記記事は最近流行の嫌韓風の見出しだが、ベトナムの政治体制を簡潔にまとめていて有用である。

ベトナム国民議会の選挙は5年ごとに行われる。人々はそれぞれの地方から中央に送る代議員を投票によって選ぶことができる。

ドイモイが始まって以降、書記長の任期は最大でも210年であった。1986年以降、今日まで6人が書記長を勤めており、その数は米国の大統領と同じである。

ベトナムの書記長は党内のコンセンサスによって決まる。党内の選挙もあるが、選挙以前に行われる派閥間の駆け引きが重要である。まさに自民党政治と言ってよい。

ベトナムでは権力は共産党書記長、国家主席、首相の3人が分掌する。党書記長といえども全てを1人で決めることはできない。そして派閥のコンセンサスで選ばれたトップは、日本と同じようにあまり強くない。その政治感覚は、日本と同じようにコンセンサスを重視する村社会的である。

ベトナム開発途上国にしては珍しく、軍が大きな政治力を保持していない。日本と同様に、経済的な利権を主軸として派閥抗争を行ってきたために、軍のプレゼンスが弱くなってしまった。

 

 

 

文在寅韓国大統領は2月26日の閣議で「柳寛順烈士には(国家有功者の)1等級勲章の資格があると思う」と同女を讃えたが、日本人にはほとんど馴染みのない名前だ。柳寛順は「三一運動」に参加したことで逮捕され、獄中死亡したことで、韓国のジャンヌダルクといわれ、教科書にも載っている。ただ、その記載には間違いがあるようだ。これを指摘したのが、郷土史家の任明淳さん。小学校の教科書には「検事に椅子を投げつけたため法廷冒とく罪が追加され、7年の刑を宣告された」とあるが、刑事記録には3年の刑を受け、そのまま確定したという。また、四肢が切断されて、遺体が返還されたというのも事実ではなく、級友だったポガックさんの証言によると、死亡して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったが、四肢は切断されてはいなかったという。

https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=24426

 

 

記事が書けなくなっていてびっくり

久しぶりにはてなを開いたら、記事が書けなくなっている。何やらはてなブログに移行しなければならず、インポートをしなければならないとのこと。締め切りは2月28日って、、今日じゃん!

日米の航空機思想の違い

ゼロ戦は1000馬力、F6Fヘルキャットは2000馬力でした。ゼロ戦は51型まで改良されましたが、防弾措置や機銃が強化された一方で、馬力は変わらなかったため、ベテランには評判が良くなかったようです。
格闘線をする場合、速度が低速になるため、米軍機はその高速性能を生かせないため、早い時期から一撃離脱方式に切り替えて行きました。
ゼロ戦は旋回性能を生かした巴戦をしかけてくるのですが、その際急上昇急旋回の斜めひねり込宙返りをするのですが、宙返りの頂点に達した時点で速度が極端に落ちます。
米軍機は2機が低空域に、2機が高空域にいるに2チーム4機で行動しており、ゼロ戦が宙返りの頂点に来た時、上空の米軍機が急降下してきて、ゼロ戦に機銃を撃ち込んできたそうです。
日本軍も当初はその方法にしてやられていましたが、そのうち自分たちも一撃離脱の共同撃退方式をとるようになりました。
編隊も当初3機編隊が、一撃離脱方式をとるようになってからは4機編成になっていたそうです。
ただ、階級だけ上の上官が前線に来ると、まだゼロ戦の方が優秀だと信じていて、何で空中戦をやらないのだと文句を言っていたそうです。ただ戦闘機乗りは階級より、搭乗時間で上下が決まるため、ベテラン搭乗員は「そんなの机上の空論です。それをやったらまず命を落とすのは上官の方です」と相手にしなかったそうですが。搭乗員も生き残るのに必死ですから、戦法をいろいろ議論していたようです。
ただ、こうしたことができたのは南方のベテランだけで、大量生産された若手パイロットは、まだゼロ戦が世界最高だと信じている上官から格闘戦を挑むように言われて、命を落としているんでしょうね。

敵と会する前に、怖いのは後方で、帽子を脱ぎ視界を良くし、絶えず首を回して後ろ上方を見ていたようです。
戦闘中に怖いのは下方だそうです。そこは全くの死角ですから、相手の機を後方から追うときも、絶えず機体を傾けて下方を覗いていたそうです。
永遠のゼロにもそうしたシーンはありましたよね。

コンプライアンス窓口の落とし穴 イビデン事件最高裁判決

最高裁の平成30年2月15日付のイビデン事件判決というものがあります。
子会社の従業員が起こしたセクハラについて、親会社が責任を負うかが争点の一つでした。イビデンは、コンプライアンス相談窓口を設け、子会社従業員が子会社の事情について相談することも認めていました。原審の名古屋高裁判決は「イビデンが人的・物的・資本的にも一体といえるそのグループ会社を通じてそのような対応をする義務を負担することを自ら宣明して約束したものというべきである」とし、コンプライアンスにのっとった解決をしなかったとしてイビデン安全配慮義務違反を認めたのです。最高裁は、コンプライアンス窓口を設置することにより、信義則上親会社が安全配慮義務を負うことがあることを認めつつ、具体的な事案認定の結果、イビデン安全配慮義務を負うべき事案ではなかったと結論付けました。
子会社の従業員を事実上指揮監督していたとし、特赦な社会接触関係を認めて、親会社の安全配慮義務違反を肯定する法理論は今までもありましたが、イビデン判決は、コンプライアンス窓口の設置あることを理由に、親会社が安全配慮義務違反を負うことを認めたところに先例的な意義があります。そのため、この判決は、内部通報窓口の制度設計にも影響を及ぼすものと言えます。