戦争のたびに新聞の部数が飛躍的に伸び、新聞社のビルが大きく高くなっていった

日経6月1日朝刊「熱風の日本史」の記事が良かった。一般には、戦争中軍部が新聞に圧力をかけ、提灯記事を書かせたように言われるが、実際は好戦的な記事を書けば部数が伸びたために、どこの新聞も競って好戦的な記事を書いたという。新聞は被害者ではなく、加害者だったのだ。以下抜粋する。
日露戦争では大手新聞の部数は軒並み3倍に増えた(戦地に記者を送るだけの経済的に余裕の有った大手新聞社が読者の人気を集めたから)
「ジャーナリズムは日露戦争で戦争が売上を伸ばすことを学んだ」(半藤一利・保坂正康「そして、メディアは日本を戦争に導いた」)
「新聞は戦争とともに発展する」(国際連盟脱退前に唯一反対を唱えた時事新報伊藤正徳記者)
「戦争のたびに新聞の部数が飛躍的に伸び、新聞社のビルが大きく高くなっていった」(岩川隆「僕が新聞を信用できない訳」)
「大阪毎日新聞東京日日新聞の戦争賛美は際立っており、社説で軍を叱咤。毎日新聞後援、関東軍主宰、満州事変と言われた。」(日経同記事)
満州国を付承認とした国際連盟の決定に異議を申し立てる全国新聞・通信社132社の共同宣言が掲載された。翌年の連盟脱退を促す結果となり、新聞は国家をミスリードし始めていた」(日経同記事・因みに松岡洋右国際連盟脱退の結果となったことで批判を浴びるのではと不安を感じながら帰国の途についたが、実際帰国すると歓迎の嵐だったという)
このように新聞社は、そろって愛国心を競い、軍部を叱咤し、国論を日米開戦へと導いたが、開戦が近付くと逆に軍部が新聞を統制し始める。日米開戦の9か月前の昭和16年3月、国家総動員法が改定され、新聞を含む全ての事業の開始から解散までを政府のが勅令で統制・命令できるようになった。これに基づき勅令が発布され、さらには紙の供給が軍の胸先三寸で決まるようになり、新聞は軍部の手で統合される。昭和13年には約700紙あった普通日刊紙が昭和17年11月には55紙にまで激減した。
夕刊フジ、MSN産経は、反中、反韓で部数、アクセスを増やしているが、他紙もこれに追随しつつあるのではないか。朝日の慰安婦記事が問題なのは事実だが、こうした朝日批判が広まり、部数が減れば、朝日も反中、反韓記事を増やすかもしれない。
新聞社はそろって、軍部の圧力で書きたい記事が書けなかったと、被害者的側面を強調し、自己の戦争責任には頬かむりしがちだ。自省が足りないため、新聞が好戦的論調になることに抵抗力がない。