日本における公娼制度の廃止

 日本でも公娼制度のあったことは、前のブログでも書いた。日本では一応、それは当事者の同意の上で行われていたことになっていた。売春宿(吉原のように正式な売春宿もあれば、料理屋が酌婦という名称で娼婦を雇っていたこともあった)が、お金に困った親に金を貸し、娘が売春宿ないし料理屋で娼婦として働いて、その借金を返すことになっていた。娘が逃げだすと、売春宿は親のところに押しかけ、金を取り立てる。そうなると親は田畑を売るか、他の娘を差し出すことになる。だから娘もそれが分かるから逃げ出すことができなかった。
 一応娘を雇うのだから雇用契約と言えるが、売春させることを目的で雇うのだから、こうした雇用契約公序良俗に反して無効という判決は早くから出ていた。しかし雇用契約が無効になっても、金銭消費貸借契約自体は有効というのが裁判所の考え方であった。もし、そんなことを認めれば、親は借金のかたに娘を引き渡し、その後娘が逃げて、借金も無効になるとなれば、悪徳な親はそれを繰り返し、売春宿が食い物にされる。そのような不道徳は許さないというのだ。ただ、売り飛ばされた娘からすれば、納得できない話だろう。雇用契約が無効ということで辞めるのは良いが、それをしたら実家の田畑が売られるか、妹が売り飛ばされるからだ。
 戦後もしばらくは、「借金自体は有効」との判決が続き、売り飛ばされた女性の人権は無視され続けていた。これにNOを言ったのが最高裁昭和30年10月7日判決である。同判決は、娼婦(本件では料理屋の酌婦だった)としての労働契約と同時に消費貸借契約等が締結された場合に、これら契約は密接不可分の関係にあるものとして、これらの契約全体が公序良俗に反し無効であり、そのような場合には使用者は民法708条(不法原因給付:公序良俗違反野契約に基づいて受け取った金銭は返さなくていいという規定)に基づき、交付した金銭の返還を求めることもできないとした。
 実はこの考え方は、明治政府が明治5年11月2日の太政官布告に表れていた。同布告は「人身売買を禁じ諸奉公人年限を定ね芸娼妓を開放し、これについての貸借訴訟は取上げずの件」というのが正式名称。通称で芸娼妓解放令と言われているが、この布告のキモは後半の「これについての貸借訴訟は取り上げず」にある。こういう立派な布告があったのだが、結局その後公娼制度を追認する規則ができたりして、空文化してしまったのである。
 裁判所以上に動きが遅かったのが国会であった。昭和23年、国会に売春等処罰法案が提出されたが、審議未了で廃案。昭和28年から昭和30年にかけて、4回ほど、女性議員によって、議員立法として同様の法案が提出されたが否決された。しかし昭和31年、自由民主党参院選を控え、女性票を獲得しようとの狙いから、一転して売春防止法の成立に賛同。法案は同年5月21日に可決した。
 しかし、その後も難産が続いた。売春防止法は翌33年4月1日一部施行、翌34年に罰則部分も含め完全施行されることになっていたが、赤線業者が必死のロビー活動を続け、全国で63の市町村長、1の県議会議長、37の市町村議会議長、25の自由民主党支部長、151の商工会議所から、法の完全施行を延期すべきとの陳情書が提出された。そのため風紀衛生対策特別委員会が設置され、「早期に法を施行すると、売春業者が廃業の憂き目にあい、国がその損害を補償しなければならなくなる。」との反対論が噴出。結局、完全施行が延期されそうになった。
 しかし、東京地検特捜部が業者団体による贈賄を摘発。わいろを受け取ったとして3人の衆議院議員が逮捕された(うち2名が有罪判決を受ける)ため、結局完全施行延期論は勢いを失い、当初の予定通り昭和34年4月に完全施行となったのである。
 因みに近代公娼制度を最初に確立したのはフランス。またフランス軍、特にフランス植民地軍には「従軍売春宿=Bordel militaire de campagne」という制度があった。この制度は、第一次世界大戦第二次世界大戦インドシナ戦争アルジェリア戦争の際にも存在した。
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