渡辺喜美の造反 新党結成への障害

党議拘束違反の渡辺喜美に対して、戒告処分を即決

 08年12月24日の渡辺喜美元行革担当相が民主党提出の衆院解散・総選挙を求める決議案に賛成した。国会の採決で、与党席から一人だけ渡辺喜美が起立し、野党席から「おお!」というどよめきが起こった。
 2次補正予算提出の遅れ、定額給付金を批判する等、麻生政権批判のトーンを上げていた渡辺喜美だが、ついにルビコン川を渡ったということだろう。
 本来離党勧告ないし除名ものだが、自民党細田博之幹事長は同日、渡辺喜美を、党議拘束違反を理由に戒告処分という8段階あるうちの2番目に軽い処分にした。党紀委員会は開かず、幹事長が決定したという。
 もし時間を置くと党内から離党勧告等を求める声が起きる→世論もすわ離党かと騒ぎ始める→執行部としても少なくとも離党勧告に踏み切らざるを得なくなる→渡辺喜美にはしてやったりで、脱党の大義名分が立ち、マスコミからも好意的な反応が起きる→他の議員に対する呼び水となり、脱党が続けば、衆議院での3分の2を保てなくなり、再可決ができなくなる→麻生政権下で解散せざるをえなくなる、というのは声を無視できなくなる、という最悪の展開を未然に防ぎたかったのであろう。
 この手際の良さは際立っていた。渡辺喜美は党の対応を次のように皮肉った。「緊急経済対策もこういうスピードをもってやっていただきたい」。

渡辺喜美は、12月8日の自ら主宰したパーティーで怪気炎を上げていた

 渡辺喜美は、12月8日、都内で開いた自らのパーティーで、800人の支持者を前に「頭の体操」と断った上で、新党結成のシミュレーションを、「持ち株会社分社化型」、「協議離婚型」、「裸一貫型」と三つに分けて説明した。
 「持ち株会社分社化型」とは、地方ごとに東京自民党、千葉自民党を作る、あるいは派閥ごとに町村自民党、津島自民党を作る等し、自民党本部は持ち株会社的立場になるといったものである。次は「協議離婚型」とは、正式には分党である。合意書を取り交わして、政党を解散し、新たに複数の政党を設立する形となる。「裸一貫型」は一般には分派と言われている。分党手続きをすることなく、政党を飛び出るパターンだ。

協議離婚型(分党)と裸一貫型(分派)の違い

 分党しようとなると、新たに政党を作ることを自民党との間で合意する必要があり、分派するだけならば、協議の必要なく本人が脱党すれば足りる。手続的には分党は面倒だが、政党交付金の扱いが異なる。政党交付金は、一定の要件を満たした政党に、1月1日時点の所属国会議員数と前回選挙の得票数に応じて交付。分党の場合、議員数と票数に応じた交付金が受け取れるが、分派の場合は、票数分の交付金は受け取れなくなる。もっとも議員数に応じた交付金を受け取るには、新たに政党を作り、かつ所属議員が5人以上で、2%以上の得票数を得ている必要がある
 渡辺喜美は、前記パーティーで、彼言うところの裸一貫型=分派型を「インパクトが大きく、大化けの可能性がある。覚悟のみでできる。」と評したという。

渡辺喜美が離党したとして続く議員はいるのか

 彼にいくら国民的人気があっても、彼一人だけでは力不足だ。政治は数の力で決まる。一人だけで独立しても、小沢は相手にしないと思う。数を集めず彼一人では陣笠代議士一人の扱いだろう。彼としては先に1人外に出て、脱党組を誘い出し、仲間を増やしてからでないと、自分という人間を高くは売れない。問題は何人集められるかである。また政党を作るとなれば、金もかかるし、時間もかかる。
 この点、民主党の元事務局長の伊藤惇夫は次のように言っている。彼は自民党事務局を退職してから、94年末から新進党総務局に入り、その後96年12月から太陽党、98年1月から民政党、同年4月から民主党の事務局に勤務、太陽党以後は、いずれも事務局長を務め、政治の裏の裏を知り尽くした人物だ。
 新進党を離党して太陽党を結成した時、直前までの意思確認では「30人は確保」との確証を得ていたが、蓋を開けたら参加したのはたったの13人。この時に得た教訓は、「威勢のいい奴ほど信用できない」である。旗揚げの相談中、もっとも積極的で元気が良かった奴ほど、いざとなったら、さっさと逃げ出したからだ。
 つぎは、やはり資金の問題だろう。新党を立ち上げるとなると、かなりの資金が必要となる。大雑把に言って、参加者vsl当たり〜6000万円は覚悟しなくてはならない。仮に30人で結成するとなれば、最低でも15〜20億円かか。
 資金問題にメドがついたら、いよいよ旗揚げ。党本部を確保したり、分厚い届出書類を用意し、総務省に届け出て、受理してもらわなければならないし、党の基本政策や綱領も作らなければならない・・・・・・、煩雑な仕事が山ほどある。小池百合子氏は、「新党なんて3日でできる」と豪語していたが、自身の経験から言うと、そう簡単ではない。

 (中央公論 2008.3月号)

ルビコン

 前の文で、渡辺喜美ルビコン川を渡ったと書いたが、「ルビコン川を渡る」とは、古代ローマの故事である。ちなみに、この言葉の意味は次の通り。
 シーザーはガリア地方に遠征して多大な戦果をあげ、軍団を率いて凱旋の途に着いた。しかし、民衆に人気のある彼をローマに入れると、自分たちの政治的地位を脅かされると考えた元老院が、単身ローマ市内に入るよう要求した。当時の政治状況からすると、単身市内に入れば、元老院はあらゆる口実を設け、シーザーを国家の敵として処刑することが容易に予想された。当時の法律では、ローマ及びその周辺は、ルビコン川を境界として非武装地帯とされていたが、シーザーは「賽は投げられた」と言って、軍隊をそのまま引き連れ、ローマ市内に入り、その後シーザーを支持する改革派と、従来の貴族優位の政治を維持しようという保守派との内戦になる。