オウム被害者に給付金最高3000万円 坂本弁護士一家殺害事件の初動捜査のまずさが地下鉄サリンを許した。

オウム被害者救済法が12月18日より実施

オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律」が08年12月18日より施行される。オウム真理教が引き起こした8つの事件により、死亡したり、傷病を負ったり、障害を残している人に対して給付金が支給される。ただし、被害者から公安委員会あて警察署を通じて申請する必要がある。申請は、平成20年12月18日から2年間に限ってしか、行うことができない。
申請書類はこの20頁にあり↓
http://www.npa.go.jp/oumuhigai_annai/joubun_oumuhigai.pdf
手続きについては↓
http://www.npa.go.jp/oumuhigai/index.html
警視庁でも電話相談窓口を設けているので、該当する人はすぐに電話したほうがいい(03−3581−5220、平日8時30分〜17時15分)
地下鉄サリン事件が起きた当時、私は恵比寿の自宅から日比谷線を使って築地の法律事務所に通っていた。地下鉄サリン事件はまさにこの日比谷線で起きた事故だった。またオウム殺害された坂本堤弁護士は同期でもある。このためこの事件に対してはいささか思い入れがある。
私は、坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件の初動捜査がきちんとなされていれば、地下鉄サリン事件は起きなかったのではと考えている。

支給対象となる8つの事件

1 坂本堤弁護士一家殺人事件(88年11月4日発生)
2 松本サリン事件(94年6月27・28日発生)
3 サリンを使用した滝本太郎弁護士殺人未遂事件(94年5月9日発生)
4 VXを使用した殺人未遂事件(94年12月2日発生)
5 VXを使用した殺人事件(94年12月12日発生)
6 VXを使用した殺人未遂事件(95年1月4日発生)
7 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(平成95年2月28日〜3月1日発生)
8 地下鉄サリン事件(95年3月20日発生)

支給金額

死亡の場合2000万円、植物人間ないしそれに近い状態になった場合は3000万円、重度の障害は1000万円、軽度の障害は500万円、障害はなくても1か月以上の通院は100万円、障害はなくても1か月未満の通院は10万円が支給されることになっている。

坂本弁護士一家殺害事件 初動捜査をしっかりしていればサリンはなかった

 そもそも坂本堤弁護士殺人事件について、家族から被害届が出ながら、磯子警察がこれを黙殺し、初動捜査を行わなかったという不手際があった。事情はこうである。11月4日土曜日の未明、村井、早川、岡崎、新実、端本、中川といった幹部を含む教団メンバーが、坂本宅に侵入、坂本堤と妻都子、長男龍彦を殺害した。6日月曜日、坂本弁護士が事務所を無断欠席した。両親が坂本弁護士宅を見に行くと、炊飯器に御飯が入ったままなど、きれい好きの都子さんらしからぬ状態で3人がいなくなっていた。
7日、坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所の弁護士も立ち会って、坂本宅を見分したところ、次の事実が判明した。
1.床に敷かれた敷物の隅がたわんだ状態あり、敷物を留めるための鋲が2、3個抜け、「く」の字に曲っていた。
2.テレビ台が、40センチほど前にせり出していた。テレビ台の上にはテレビ、台の中にはビデオデッキ、ビデオテープが入っていてかなりの重さがあった。
3.テレビの裏側に衣服が無造作に放り込まれ、テレビの上から置時計が落ちていた。
4.鏡台の背後のふすまに、鏡台の輪郭と同じ大きさ、同じ形の凹みが残っていた。
5.鏡台の足の部分と敷居には最近ついたと思われる傷があった。
6.壁に血痕(その後坂本と同じO型の血液と判明)
坂本は熱血的な弁護士で、事件を放り出して行方をくらますような人物ではなかった(坂本は司法研修所39期、私の同期である)。オウムから子どもを教団施設から取り戻そうとする親から委任を受けており、教団とはかなり白熱したやり取りがあった。しかも上記のような犯行を疑わせる状況証拠もあったのである。こうしたことから坂本の同僚弁護士たちは最初からオウムによる拉致である可能性が濃厚だと考えていた。7日夜、同僚弁護士らは坂本の母とともに磯子署に捜索願を提出し、オウムによる拉致が疑われることを必死に説明したが、警察は「特殊家出人捜索願」を出せという対応に終始した。その夜、磯子署当直警察官が坂本宅の中を確認しにくるも、まったくやる気がなく、たった10分間ほどで帰ってしまった。
8日朝、坂本の母と、妻都子の母が坂本の部屋を丹念に捜索したところ、オウムの幹部がつけている教団のバッジ「プルシャ」が見つかった。これをもって警察に行き、やはりオウムの仕業ではないかと訴え、同日、ようやく磯子署鑑識が現場検証を行った。しかし、警察は自分らの7日の現場確認の不十分さを棚に上げ、「弁護士が先にプルシャを見つけた。こんなものを公判で使えるか。」などと、当事者が先に発見したことで証拠価値が引き下げられたかのような発言まで行っている。
11月14日、神奈川県警は、「坂本弁護士は依頼者の金を使い込んだ結果、高利貸しに手を出し、自ら失踪した」という事実無根の噂を新聞社数社に流している。しかも、それと同時に県警は「任意の失踪の可能性は五分五分」とリークしている。それと同じ話を今度は公開捜査時に行い、加えて公開捜査時に県警は「11月2日の坂本弁護士の活動などについて、横浜法律事務所から弁護活動を理由に捜査協力を拒否されている」と事実無根の発言を行い、さらに「横浜法律事務所の言っているとおりに書くと恥をかくぞ。」と、横浜法律事務所を誹謗中傷し、その後も同様の発言を繰り返していた。
磯子警察、神奈川県警がどうして、ここまでかたくなに、事件性を否定し、オウムの関わりを否定し、被害者に対しことさら敵対的な態度をとり続けたのか。これは、坂本が所属する横浜法律事務所が労働問題(国労横浜事件で県警が誤認逮捕した事案。無罪判決が出ている)や日本共産党幹部宅盗聴事件において、警察側と対立していたためとも疑われている。
さて、現場に落ちていたこのプルシャは実行犯であった中川智正が落としたものであった。当時、このプルシャはオウムの幹部しか着用しておらず、このプルシャはオウムの関与を示す重要な証拠だった。しかしオウムはこのプルシャは大量に頒布されていると嘘をつき、その後プルシャを大量製造することで嘘を隠ぺいした。警察が公権力をもってこの事実をもっと追及していれば、オウムを追い詰めることは十分可能だったのである。
しかもこれだけの重大事件であるのに、公開捜査を開始したのは11月15日。事件後すでに11日たっていた。もしあなたが事件当時現場近くに住んでいて、不審な車を見かけたとしても11日もたったら、忘れてしまっているだろう。ここにも神奈川県警の怠慢(というより悪意による無視)がある。
なお、その後公判となって、驚くべき事実が判明した。前述の11月8日の現場検証において、寝室の襖・畳などに20数カ所の血痕が存在したことが、実況見分調書に記されていたのである。にもかかわらず、神奈川県警は失踪かもしれないと言っていたのだ。ありえない話だ。
この坂本弁護士一家殺害事件の初動捜査が、しっかり行われていたら、その後の7件の事件は起こらなかったのかもしれない。神奈川県警が、「横浜法律事務所憎し」との私的感情から、初動捜査を懈怠し、徹底を欠いた事実が、もしあったとしたら、国民全体に対する重大な背信行為となる。
(以上の記事は、坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会のHP「生きて帰れ 坂本弁護士一家殺害事件 5年10カ月の軌跡 そして真相」を参照して書いています。)

松本サリン事件の誤った初動捜査に拘泥し、地下鉄サリン事件を防げず

 松本サリン事件で、長野県警は、河野義行さんを重要参考人にするという初動捜査ミスを冒したが、さらにその失態を認めず誤った捜査に拘泥し続けたことで、オウム事件の解決を遅らせたのではなかろうか。
94年6月27日の夕方から翌日28日早朝にかけて、オウムの村井、新実、端本悟、中村、中川、富田、遠藤らが、長野県松本市の住宅街にサリンを散布した。この結果、7人が死亡、660人が負傷した。サリンという軍事用の特殊な毒物が使われたため、事件発生後しばらくは有毒物質が何であるか判明しなかった。
6月28日、警察は第一通報者であった河野義行宅の家宅捜索を行ない、農薬類など数点を押収、河野を重要参考人として連日取り調べを行った。その妻が意識不明の重体に陥っているにも関わらず、薬品を所持していたことから、単なる思い込みで重要参考人に仕立て上げたのである。しかし7月3日、ガスクロマトグラフィー分析の結果、原因物質がサリンであることが判明した。
オウム真理教は、周辺住民から松本支部の立ち退き訴訟を起こされており、オウムの敗訴の公算が高まったため、麻原彰晃が彼らに裁判を担当する判事の殺害を指示したのだ。村井らは長野地裁松本支部官舎に隣接する住宅街にサリンを散布したところ、裁判所宿舎にはとどかずに、周辺の住宅街に広がったため、オウムの動機が明らかにならず、犯人の目星がつかなかったということはあったかもしれない。しかし、サリンは、筑波大学院卒の化学修士土谷正実が、第7サティアンに巨大プラントを製造することでようやく作成されている。サリンが農薬を原料にして、家庭なんかで製造できるわけがない。警察は本当は途中で、初動捜査の間違いに気がついたのではないか。間違いに気が付きながらも、面子を守るために、見当違いの捜査を続けていたのではないか、という気がしてはならない。
以下は河野さんの講演での発言である。
「警察は私の味方だと思っていました。しかし弁護士さんに言われたのは『河野君、警察は犯人を作るところなんだよ』ということ。長野県警の警察官3000人余りのうち310人がこの事件の捜査に関わった。彼らは私の疑惑探しに奔走したのです。捜査陣の合言葉は『河野に年越しそばを食わせるな』。つまり事件発生の年内に私を逮捕しようということだったんです」。河野義行さんの03年9月24日浪速人権文化センターでの講演の紹介記事↓)
http://www.news.janjan.jp/living/0309/0309256806/1.php
疑惑は意外なところではれた、松本サリン事件の翌年に「地下鉄サリン事件」が発生。死亡者10人、傷病者5510人という未曽有の大被害を出し、さすがに河野さんが疑われることなくオウム真理教に疑いが向いた。そして松本サリン事件の解決に向かったのである。

終りに

 坂本弁護士一家殺害事件で警察が初動捜査をきちんと行っていれば、松本サリン事件はなく、松本サリン事件で警察が思い込みに走った捜査を長々続けていなければ、地下鉄サリン事件はなかったのである。